父・大谷季義の著「裁かれるのは誰か」No4  5/27から続き|杉浦和子の世界、衣・食・住・人の旅

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プロフィール

私は、古布を全国から足で歩いて収集し、服をデザインし、作品を作っている杉浦和子と申します。北は北海道から南は沖縄まで作品展を開催しております。おかげで全国の美味しい食べもの、市場、人、自然の風景、地方の街など、多くの感動、感激そして人の出会いがあります。その情報を皆様にブログを通じてお知らせしたいと思っています。日本だけでなく世界の情報も。杉浦和子の日本、世界の衣、食、住、人の旅にご期待下さい。楽しい発見がきっと見つかりますよ。

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※ 初めて読まれる方5月19日No1、5月21日No2(特に、この父の生い立ちは読んでいただきたい)、  5月27日No3からごめんどうでも、バックして

「裁かれるのは誰か」を閲覧して下さい。

 

もう100人を超える方が、閲覧して下さっている。

閲覧時間も1回に平均10分となっている。

本当にみなさん真剣に読んで下さっているのだと実感する。

江戸時代儒教学者の

佐藤一齋の言葉に

「小にして学べば壮にして、なすことあり

壮にして学べばすなわちおいて衰えず

老いて学べばすなわち

死して朽ちず」

父はもう25年前に亡くなったのに朽ちていない。

こうして多くの方が読んで下さっているのだから。

 

少し原稿を前に戻って見る。

 

 

古い殻、新しい殻

私がなぜ歴史の中に生きるかを書いたかについて若干説明しておきたい。

こんなことを言った人がいる。「歴史とは望遠鏡で過去を見ているような

もので、その対象は判り見えるが、最も身近なところはボヤけていてしか

見えない」となるほどうまいことを言うなと思った。

確かに歴史の中のある事象を捉えて、これを克明に調べるとそのことは

誠に興味深いこととして印象に残る。

だがそれは、焦点をあてたある過去の時点の出来事に過ぎず、その時点は現

在を遠ざかる程鮮明になる。場所的に言われる灯台もと暗しという言葉は

時間的に見る歴史に当てはまる。歴史的、時間的な観察には更に客観的な要

素が加わる。この客観的な要素は、必然的に評価の要素を含む。

すなわち俗な言葉で言えば、岡目八目的要素が加わるのである。

人間とはおかしなもので、先祖代々の出来事を性懲りもなく繰り返しながら

現在の自己を最高の頂点におきたがる。

そのくせ過去の失敗とか成功を統計的に眺めてああでもない、こうでもない

と言いたがる。その歴史的要素を抜いた批判が近視眼的評論となってマスコ

ミを賑わす。

近視的にしろ、遠視的にしろ、そこには事象の判断、評価が生ずる。いずれ

にせよ、ある事象の好悪の判断は、その事象前後現在までの生活経験の中

でなさなければならないし、その事象がどうして生じたかの原因関係も、

その事象以前の出来事から手繰り寄せることである。

望遠鏡で身近が見えないようにわれわれの現在における行動とか、或いは

考え方政治現象などというものは、厳密にいってとかく現時点における好悪

の評価の対象にはならないのである。従って政治評論など八掛と同じような

ものである。これがため、現在のある現象についてどうしてこうなったかと

いうことは過去の歴史的体験の所産として割り出せても、マクロ的な価値判断は後世の人々に委せざるを得ないのである。

その時代時代で何事についても国民ないし国家のために「最も良かれ」と

信じて行動したことが、後世の人々から眺めて悲惨な結果であったり、その

悲惨な過去が原因となって次の時代に国家の繁栄を招来するのは、およそ人

間の行為というものがその時点では予測できないものであるということ。

まさに、人間の歴史は、神の意志によってのみ造りだされていると言って

も過言ではあるまい。その神の意思は人間の力を持っては到底予測出来難い

ものである。日本の過去の戦争が果たして日本国民のために良かったか、悪

かったかということも、ある歴史を通過しない限り判らないといえる。

17世紀中葉におけるイギリスのピューリタン革命で、クロムウエルが反逆者

扱いにされたことは、日本で足利尊氏が逆賊扱いにされたのと同様である。

ここで、われわれが考えなければならないのは、人間の歴史の流れには

思考の流れが伴うということである。この思考ないし思想の存在を無視

して歴史的事象を批判考証することは出来ない。

人間の考え方も生活環境の変換に伴って移り変わる。それが時代の流れ

であり、この流れを、一つの型に固定し、押し止めようとすることは

容易なことではない。今日、若い者と年配者の間に断層が生じたというのは

人間の考え方の移り変わり現象の表れである。

ここに古い殻の人と、新しいからの角逐が生ずる。

古いにしろ、新しいにしろいずれの考え方に立って事物を批判し評価する

場合、その結論を異にすることは明らかである。

その結論のいずれかが是であり、非であるかということもマクロ的立場に

立つ限り、またまた後世の人々の評価に任せざるを得ないのである。

歴史の流れとは、まことに「みねるばのふくろう」というべきものである。

このように考えながら、クロムエルや尊氏を見ると、彼らを逆臣とし国賊

扱いにしたのは、勤王派とか王統派の人々であって、後世の人たち、特に

今日的にこれを眺める場合、立場が変われば足利尊氏尊王論が成り立ち、

また、クロムエルの共和革命が国民のためになしたという意味で正当化

されたりする。何しろ、国王の首をチョン切ったクロムエルも立場の違い

からは、正義の士とも評価される。

歴史の流れとともに人間の思考も移り変わり、事物の評価も変わる。

まことに有為転変といおうか、諸行無常といおうか、人の価値判断の

変化には図り難いものがある。

われわれ自身もまた、自覚すると否とにかかわらず、歴史的、社会的存在

であり、繰り返す人間の歴史の経験の中に生きている。

これを否定する者はなかろう。

今日のわれわれは、流動の激しい世界的情勢の中にあって、あらゆる事象

に対し徒らに現在の風潮のみに捉われることなく、広い視野に立って

歴史の教訓をかみしめ、あらゆる現代の事象を分析し、評価し、判断

しなければならないと思うのである。

かかる観点から歴史の中に生きることの意義を充分に理解する必要が

あろう。

 

2014年6月15日(日)
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