父・大谷季義の著「裁かれるのは誰か」No6|杉浦和子の世界、衣・食・住・人の旅

古布の服や酒袋・襤褸、材料やパッチワークの販売

アトリエ和 襤褸 神奈川 横浜市 大和市

プロフィール

私は、古布を全国から足で歩いて収集し、服をデザインし、作品を作っている杉浦和子と申します。北は北海道から南は沖縄まで作品展を開催しております。おかげで全国の美味しい食べもの、市場、人、自然の風景、地方の街など、多くの感動、感激そして人の出会いがあります。その情報を皆様にブログを通じてお知らせしたいと思っています。日本だけでなく世界の情報も。杉浦和子の日本、世界の衣、食、住、人の旅にご期待下さい。楽しい発見がきっと見つかりますよ。

最近の記事 月別アーカイブ

父60歳の還暦の時。母と孫と。

戦争放棄の前提と矛盾

 

戦争がなくなるということは人類の悲願であり、夢である。

殺伐と破壊を目的とする国家間の争い程忌まわしいものはない。

しかも国家が国家間の紛争を武力に訴えるときに常に叫ばれてきたことは、自存自衛とか正義の

ためとかであって、そこに何らかの大義名分を必要とした。戦争当時国の国民にとって自衛自存で正義

であっても、国家が行う武力による殺人、破壊行為たることに変わりなく、これを戦争相手国の側から

見るならば侵略となり、不正の戦争となる。

相手国には相手国の正義があるし、自衛自存の戦争目的がある。

そこで正義といい自衛戦争だと言っても、それは各当事国の主張であって、その正義とか自衛の行為が

是認されるのは結局戦勝国のそれであって、敗戦国のそれではない。正義も、自衛も実力の裁定によって

決まるのである。

日本では昔から「勝てば官軍」と言われてきたが。この言葉は「力こそ正義である」ことをいみじくも表現し

ている。国家間の戦争ないし武力抗争においも、勝てば官軍のの道理は普遍的にも当てはまる。

力即正義であって、力なき正義は無能というほかあるまい。

近時の平和論争で言われている「力の均衡による平和」論など、力即正義の対立の上にあぐらをかく大国

の論理に他ならない。

われわれ人間は由来闘争の動物だといわれている。人類は開闢以来闘争を本能とし、個人と個人の

争いから集団徒党を組んで争いとなり、領主と領主の争いとなり、やがて国と国との争いになるという過程

を踏んでいる。日本の国土は多くの大名が分割して、一地域を支配して小国を形成しその小国同志が

争って他の小国を併合しやがて天下を統一するという順序を踏む。

そこには、力の強い大名が最後に天下を統一し、平和な日本国を造るという図式が当てはまる。徳川時代

は八百諸候を将軍が力の権威で統一していたから三百年近い平和が続いた。このように考えると、正義は

力であり、力は正義を生むという原理が発見できる。そして力のない正義など、無能であって、そこには

平和はありえないということがわかる。この人類の争いの元祖が「個人同士」であり、やがて「集団同士」となり

「国家同士」と発展した進化の道程と軌を一にする。

この国家と国家の争いも将来、いつの日にか世界の国家を統一する強力な国が出来るか、あるいは人類

の英知が統一世界国家を造り、各国家自体はこの強力な統一国家の警察的保護を受けるようになるならば

その時こそ各国家が軍備を持つ必要がなくなる。「世界は一つなり」という世界連邦の夢は人類の悲願である。

戦争放棄の思想はこのような、世界連邦の思想に連なる。現実のこの世界で日本国は他のいかなる国から

の侵されることのない無防備中立を理想としている。

具体的に云うならば。日本国はソ連にも傾かず、アメリカにも傾かず、また他のいかなる強力圏にも傾かず

、東洋のスイスを夢見て、何人も日本の国を犯さないし、犯してはならないという前提のもとに、無防備、無戦

争を宣言したのである。

戦争を放棄するには、このように日本が無防備永世中立となることを世界の大国が認めること、理想的には

世界連邦への先駆けとなすこと。世界各国が日本の中立を絶対犯さないこと等の大前提が必要であった。

その前提のもとに日本は戦争放棄を平和主義の実現として世界に宣言したのである。

しかし、現実の世界には、未だに弱肉強食の戦国思想が根強く残っているし、共産圏国家と資本主義国家

は世界を二分し、大国は各小国を出先として、代理戦争さえしているというのが現実である。

日本の戦争放棄はかかる、世界情勢の中で理想に走り過ぎていて、世界の情勢に逆行する形で成された

と言える。それは、見えざる強力な手による操作であったとは言えないこともないが、日本人自らも、このよう

な画期的な、奇想天外な、理想の実現形態を望んでいたことも、憲法制定のいきさつからみて、全くないと

は言えない。

マツカーサー自身、自ら賛美したこの憲法9条について、その後昭和25年6月25日朝鮮戦争が勃発

するや、7月8日日本政府宛(吉田首相宛て書簡の形式)に7万5千人の警察予備隊の創設と海上海上保

安庁要員8千人の増強を命じている。警察予備隊が現在の自衛隊となったが、この自衛隊の実態をめぐっ

て今日、憲法9条の戦争放棄に違反するか、どうかで国論を二分させる結果を招来させた。

マッカサーは同条文を世界に先駆けての平和主義の画期的な宣言と賞揚しておきながら、解任帰国後

「9条は国家の安全を維持するためあらゆる必要な措置をとることを妨げてはいない。誰でも、持っている

自己保存の法則に日本だけが背を向けると期待するのは無理だ。攻撃されたら、当然自分を守る事に

なる。憲法9条は他国による侵略だけを対象にしたものであり、私はそのことを、新憲法採択の時に言明

した。その後、もし必要な場合ぬは防衛隊として陸兵十個師と、それに見合う海空兵力から成る部隊と作る

事を提言した。私は日本国民に次の事をはっきり声明した。世界情勢の推移で、全人類が自由防衛の

ため武器を取って立ち上がり、日本も直接攻撃の危機にさらされる事態となった場合は日本もまた、自国の

資源の許す限り最大の防衛力を発揮すべきである。憲法9条は最高の道理的思想から出たものだが、挑発

しないのに攻撃された場合でも自衛権を持たないという解釈は、どうこじつけても出てこない」(昭和29年2月6日朝日新聞マッカサー回想録)

 

ほんとですかと言いたい。

これでは憲法9条は世界に先駆けて最も強い平和主義の宣言であり、その宣言は、自衛力の保持をも放棄

し、自衛戦争を含めて一切の戦争をしない、交戦権を持たないというところに最大の特長があった筈なのに

、マッカサーの述懐では、全く普通の各国の平和宣言と異なるところは無いことになる。

「自衛権を持たないという解釈はどうこじつけても出て来ない」というに至っては、頭がおかしいんではないか

とさえ思われる。それならば、なぜ、吉田首相が国会で「自衛の名において戦われた戦争が多いから自衛の

為のそれをも放棄している」旨の答弁をしたとき、マッカサーは「そうではない、自衛のためなら軍備を持って

も良い、自衛権の行使は差支えない」旨の声明ぐらいしてもよかったではないか。マッカサーの「ノート」第2

項は明らかに一切の軍備、交戦権、自衛権の放棄までうたっているのだ。

誰が何といおうと、憲法9条の条文を素直に読む限り、「日本は自衛のための戦争をも放棄し、一切のいかな

る名目の自衛のための軍隊を持ちません」と解する事になろう。もし、自衛のための軍隊なら持ちうるというの

であれば、憲法のうちに宣戦、講和、軍の編成、統師等に関する条文がなければならない。しかし、かかる

条文がどこにも見当たらないのをみれば憲法は平和主義に徹することを理想としいかなる軍事力も持たない

一切の戦争をもしないということを第9条で表明したことが条文解釈として正しいことになる。

 

 

 

2014年8月2日(土)
ホームページ
ショッピング

KAZUKO COLLECTION

スケジュール

バッグ、帽子、小物

鯉幟ファッション

襤褸資料館
お問い合わせ